天然コウビサセロー(2)

(第1回 http://d.hatena.ne.jp/cinemathejury/20090726/p1

 言葉どおりに少年は翌日の朝、1台のリヤカーを引いて現れた。その荷台にはいくつもの絵の具の缶やバケツ、それから長い梯子が積まれていた。
 短くなった髪の裾を自分で切りそろえたチロは、通りすがる男たちに声をかけるのも忘れて、じっと少年の作業を見守っていた。
 まず少年はローラーを使って、パチンコ店跡の灰色の壁を真っ白に塗り替えはじめた。広い壁面をくまなく塗りつぶすために、少年は早朝から日の暮れるまでの間、何度も長い脚立を昇り降りし、もうひとつの脚立の上にペンキの入ったバケツを載せる動作をひとりで繰り返していた。
 翌日も少年は同じ仕事を反復し続けた。チロは黙ってその様子を見ていたが、やがて少年の元へと歩み寄ると、無言のままにバケツの上げ下ろしや、新しいペンキを補充する作業を手伝いはじめた。少年のほうも取り立てて礼を言うでもなかったが、さりとてそれを止めるでもなく、ふたりはお互いに言葉を交わすこともないまま、力を合わせて作業を続けた。
 醤油工場の方角から正午を告げるサイレンが聞こえると、少年は脚立から降りて持参した麦飯の握り飯をふたつ取り出し、ひとつをチロへと分け与えた。彼女は貪るようにしてその握り飯を食べ尽くすと、白い指先についた米粒も残さず唇と舌でねぶった。その様子を見た少年は自分の握り飯を半分に割ってさらにチロに与えようとしたが、彼女は「もういい」と首を横に振った。しかし構わず少年がチロの掌のなかに麦飯の塊を置くと、彼女はそれも平らげてしまった。

 それからさらに二日かけて、少年とチロは壁面をすっかり白いキャンヴァスへと変えてしまった。するといよいよ少年は丁寧に折りたたまれた布袋から大小さまざまな刷毛や筆を取り出した。それはすべて切り落とされたチロの髪の毛をさらに加工したものだったが、短く切り刻まれてもなお、彼女の髪は匂うような艶を保っていた。
 そして少年はいくつかの色のペンキを用意すると、おもむろに壁に向かって縦横無尽に筆を走らせはじめた。てっきり下絵を用意するか下書きを先にするものだと思っていたチロはあっけに取られた。どうやら少年の頭のなかには完璧な絵の姿がすでに出来上がっているらしく、その手つきにはいささかの迷いも見られなかった。

 馬頭銀座に出入りする酔漢たちは、はじめのうち少年とチロの姿にじろじろと物珍し気な視線を送っていたが、やがて壁画がこの土地に新たな客を呼び寄せるためのものだという噂が広まるにつれて、さして関心を示さなくなっていった。彼らはみな過酷な現実に疲れ果て自身の快楽を追うのに精一杯で、他人のことに関わっている余裕などなかったからであったが、もし彼らがもう少しこの話に関心を持っていれば、実際にそんな壁画を発注した人物など存在しなかったことに気づいたかもしれない。

 ある時、いつものようにふたりが壁の下に座り込んで、少年が用意した握り飯を分けあって食べていると、ひとりの女性がチロに話しかけてきた。
「チロちゃん、お母さんは元気にしてる?」年齢の割に幼く見える女性がそう尋ねると、チロは黙って頷いた。
「そう、よかった。もし困ったことがあったらいつでも相談に乗るからね。早智子はあたしの友だちなんだから…翔子がそう言ってたって、お母さんに伝えてくれる?」女性はそれだけを言い残して馬頭銀座の街角へと消えてゆき、チロは固い表情でその後ろ姿を見送っていた。
「あのひと、お母さんの友だちかい?」少年が訊くとチロはかぶりを振った。
「友だちなんかじゃない…あの女は昔お母さんといっしょに仕事してたけど、いまはもう何の関係もないの…ただあたしたちのことを憐れんでるだけで、本当に助けようなんて思っちゃいないの」それっきりチロは黙りこくってしまった。

 さらに何日ものあいだ少年は超人的なスピードで筆を振るい続け、徐々に壁面の絵は具体的な形をとりはじめた。そこに描き出されたものはチロの予想とはあまりに異なっていたが、彼女はあえてその絵の意味を少年に問おうとはしなかった。
 そして少年がチロの前に姿を現してちょうど一ヶ月たった日の午後、彼は脚立の上から降り立ち、満足そうな表情で筆を置いた。
 おそらくはどこか異国の風景であろうか、画面いっぱいに荒れ果てた道路が描かれている。その奥では白い柵を背景に原色の衣服をまとった子どもたちが路上に集い戯れているようだが、彼らの首から上は画面の外にあるためにその表情は伺えない。そして画面手前の路面にはぽっかりと切り取ったように四角い穴があいていて、そこからどういうわけか、一頭の馬が頭のてっぺんだけを覗かせていた。同じ画面上にありながら、子どもたちと馬はお互いに何の関心も抱いていないように見えた。
 その奇妙な風景は、少年の精緻な筆づかいによって写真と見紛うほどの生々しさを備えていたが、穴の縁ぎりぎりから見える馬の眼球だけがなぜかまだ描き込まれていないために、見るものに一層不思議な印象を抱かせた。
 ぼんやりとチロが壁画を見上げていると、少年が語りかけてきた。
「チロ、きみのおかげでもうすぐこの絵は完成する…間違いなくぼくの最高傑作だ。ほんとうに、なんと礼を言っていいのかわからない。でも、最後にもうひとつだけ、きみに手伝ってほしいことがあるんだ」
 その口調に秘められたものを感じて、チロは彼の顔に視線を向けた。
「この馬の眼を描くために、もう一度きみの毛を買いたい。でも今度は髪の毛じゃなくて…その…」少年は少し困ったように言った。「…きみの…下半身の毛が必要なんだ。どうしても」そして急いでつけくわえた。「もちろん、いやなら断っても構わない…きみに無理強いはしたくないんだ。ぼくは…」

 彼の言葉を遮るように、チロはその途方もない申し出をまるで予期していたかのごとく、静かに、しかし固い決意を込めてうなずいた。
「あなたが望むのならよろこんで売ります。でも、ひとつだけ条件があるの。あたしと…あたしと、コウビしてください」

(つづく)