昆布は無慈悲な海の女王 〜4

 そう、彼女の名は秋帆である。春でも冬でも、ましてや夏でもない。それこそが昆布先生が自身の一生を捧げると誓った女優の名前であった。
 1991年6月30日東京都生まれ。かに座。左利き。身長は164cmで、これは奇しくも昆布先生の背丈と一致する。趣味は読書と買い物。嫌いな食べ物はトマト。
 小学5年生のときにスカウトされて子役モデルとしてデビューした秋帆の姿を昆布先生がはじめて目にしたのは、当時毎月欠かさず購読していた小学生向けファッション誌「プチレモン」の誌上であった。ほとんど天使といってもいいその容姿に魂を揺さぶられるような衝撃を受けた彼は、それからまるで取りつかれたように彼女を追いかけ続けた。
 そして秋帆が中学1年のとき、美少女アイドルの登竜門である「三越のリハウス」のCMに起用されたことと、蒼崎みやい、堀木珠希といった人気女優を生んだBS−yのテレビドラマ「ケータイ知事」シリーズに抜擢されたことから、彼女を巡る風向きは大きく変わりはじめた。特に初の主演ドラマとなった「ケータイ知事 石原零」では、東京都知事の孫であるIQ180の天才女子中学生が祖父から与えられた携帯電話を武器に、毎回不法滞在者外国人犯罪者を別件逮捕や転び公防で検挙するというヒロイン役が評判を呼び、単なるジュニアアイドルの枠を超えた国民的な人気者としての道を歩み始めるきっかけとなった。ちなみに彼女のその他の代表作には、人気webコミックの実写映画化で彼女がその年の新人賞を総なめにした「天然コウビサセロー」、女子高合唱部の男性顧問が部員たちに“コンクールで優勝したら金玉を見せる”と約束したために巻き起こる大騒動を描いたコメディ映画「うた玉♪」、最近では、ガソリンスタンドを舞台にしたシチュエーションラブコメディードラマ「オツメン(乙種危険物取扱者免状)」などがあった。
 現在の彼女は高校卒業を翌年に控えてなお学業と仕事の両方を超人的な意欲でこなしており、いまやその清楚な容姿をテレビや雑誌で見ない日はないと言っていいほどの活躍ぶりであった。そして昆布先生はそんな秋帆の成長する姿を、まるで自分の娘か孫を見守るような気持ちで遠くから応援し続けていた。実際、彼が高校生以上の年齢に達したアイドルを応援するのはたいへんに珍しいことであった。
 そんな昆布先生すら上回る熱狂的な一部の秋帆ファンのあいだでは、彼女を崇拝するあまり、にわかには信じがたい伝説がいくつも語り継がれていた…いわく、“秋帆が生まれた夜、東京の空にひときわ明るく輝く星が現れた”“秋帆の誕生を祝って、3人の賢者が贈り物を持って病院を訪れた”“水をワインに変え、目の見えない者や足の不自由な者を治した”“たとえ秋帆が亡くなっても、3日後には復活するであろう”などなど。それはいくらなんでも大げさすぎるだろうと思いつつ、昆布先生自身の心のなかにも、彼女の持つ常人離れした魅力の裏側にある神秘性を信じたいと思う部分が確かにあった。しかし今日この日、生まれてはじめて直接目にした本物の秋帆は、長年のあいだテレビやPCのモニター、あるいは雑誌のグラビアを通じて彼自身が作り上げてきたイメージを打ち砕いた――すなわち、神格化された偶像や現人神ではなく、血肉を備え生きて呼吸している生身の少女、手を伸ばせば届きそうな普通の人間のひとりであることを知って、昆布先生の彼女に対する気持ちは単なる憧れから、はっきりとした恋愛感情へと変化しつつあった。
 ステージ上では、秋帆が司会者に、この映画での役柄について尋ねられていた。
「えっと…わたしの役は、東京から来た高校生の布美という女の子なんですけど…死んだお母さんの故郷の港町を夏休みに訪れて、そこで昆布漁のアルバイトをしているうちに、漁師の男の子と恋に落ちるという…そういう役なんです」そう答えながら、彼女は恥ずかしそうにまた微笑んだ。昆布先生の脳内では、すでに彼が秋帆の相手役を演じる映画のワンシーンが再生されはじめていた…嵐の夜、小さな小屋の中で焚き火を挟んで向き合うふたり。濡れそぼった半裸の秋帆が叫ぶ…「昆布!その火を飛び越えて来い!」
 しかし秋帆が一旦下がり、次に司会者が共演者の男優の名を呼んだとたんに、先生は甘い幻想から一気に現実の世界へと引き戻された。
 女性の観客からの黄色い声援とともにマイクの前に立ったのは、長身で目元涼やかな19才の人気イケメン俳優、岡田真坂だった。秋帆とは同じ事務所のスターゲイト・プロモーションに所属し、すでに「天然コウビサセロー」「オツメン」で共演している仲でもある。
 そして何よりも昆布先生を悩ませているのが、このふたりがプライベートでも親しく交際しているらしい、という世間の風評であった。
 大勢の前でしゃべるのが苦手らしい岡田は、秋帆と三度目の共演となる今回の映画ではヒロインの布美が恋する地元の昆布漁師・昆雄役を演じる、というようなことを言葉少なに、どちらかといえばぶっきらぼうな調子で語ったが、その態度はかえって彼の持つ実直さを引き立たせ、決して悪い印象を与えるものではなかった。
 むろん昆布先生とて、決して岡田のことを嫌ってはいるわけではない。むしろ、他の訳のわからない男に秋帆をさらわれるよりは、彼のような好青年と結ばれて幸せになってほしい、とさえ願っていた。しかし他の出演者や監督があいさつしている間にも、岡田と秋帆が何事かを囁きあい、互いに笑っている様子を目の当たりにすると、やはり昆布先生の心は大きく乱れ、胸を引き裂かれるような切ない気持ちに襲われるのだった。

 イベントが終わって、三々五々に散りだした観客たちに紛れて歩いているときも、アルベルトに乗って帰路についているときも、帰宅して夕食を食べているときも、昆布先生の胸中にはもやもやとした感情が渦を巻き続けていた。いまでは秋帆の存在が身近に感じられるようになった分だけ、余計に彼女との間にある埋めがたい溝の深さを思い知らされる。こんな苦しい思いをするならいっそ、秋帆になど会うんじゃなかった、とすら思うようになっていた。布団に入ってからも昆布先生の懊悩は続き、幾度となく起き上がっては枕元に積まれた雑誌の山からファッション誌の「Zimmer」を引っ張り出し、カラフルな衣装に身を包んだ秋帆のグラビアを眺めて何度もため息をついていたが、最後には悩むことにも疲れ果てて深い眠りの中へと落ちていった。

 翌日から、少しずつ自分の運命が変わってゆくことなど知るよしもないままに。

(つづく)