昆布は無慈悲な海の女王 〜3

 気が遠くなりそうなほどの焦燥感に身を焼かれながら、やっとの思いで時刻が2時30分を回ったころ、町内放送用のスピーカーがガリガリと音を立てるのが窓の外から聞こえた。『…東港地区のみなさんにお知らせします…本日午後3時、町営保養所前の特設会場にて映画「昆布少女」ロケ隊の歓迎イベントを開催いたしますので、みなさんの参加をお願いいたします。繰り返します…』
 昆布先生が旧小学校の保養所へと駆けつけたときには、すでにグラウンド跡の広場は驚くほどの人の群れで埋め尽くされていた。これほどの人数が東港地区に集まるのはおそらくこの町史上初のことであろう。どうやら道東一円から噂を聞きつけた見物客が大挙して押し寄せたらしく、海岸の道路には他市のナンバープレートをつけた違法駐車の車両が列を成していた。赤色灯を回したパトカーがさかんに車両の移動を呼びかけているが、あまり効果はないように見える。もっとも日本を代表するスーパースターがこの地を訪れることを考えれば、この程度の騒ぎで済んでいるのは奇跡とも思えた。
 しかし本当に昆布先生に衝撃を与えたのはこの混雑ではなく、保養所の傍らに並んだ数台の大型トレーラーとバスの姿だった…それはつまり、予定よりも早く撮影隊がここに到着していることを示していた。いまこの瞬間にもあの人が自分と同じ地面を踏み、同じ空気を吸い込んでいる…そう考えただけで彼の膝は震え、視野が急激に狭まるような奇妙な感覚に襲われた。
 しかしいつまでもここに立ち尽くしているわけにはいかない。昆布先生はなんとか気を取り直すと、広場を十重二十重に取り巻く群衆のなかへと果敢に飛び込み、人の波を押しのけ掻き分けつつ、少しでもイベントが行われる仮設ステージに接近しようと死力を尽くした戦いを開始した。揉みくちゃにされ時折罵声を浴びせられながらも会場前方までようやく近づいたところで、彼は思わぬ障害が自分の行く手を阻んでいることに気づいた…パイプ椅子の並んだステージ前の特等席はこれ以上の混乱を避けるために周囲にロープを張り巡らされ、町役場の職員によって厳重に立ち入りを制限されていたのだ。昆布先生がそのロープをくぐろうとすると、たちまち係の人間に手荒に押し戻されてしまった。「ここは東港の住民と関係者以外は入れません!」彼は自分も東港の住民であると主張したが聞き入れてはもらえなかった。…たしかにここには仕事で通っているだけなので仕方がないのだが。あわてて周囲を見回したが、一緒に来たはずの親方夫婦の姿は影も形も見えなかった。おそらくあまりの賑わいに恐れをなして番屋に帰ったのだろう。
 万策尽きた昆布先生があきらめかけたとき、思わぬ助け舟が入った。「こんぶせんせーい、こっちこっち!」
 平泉成ばりのハスキーボイスが聞こえた方向を見ると、関係者席の片隅で手を振っている老人の姿が目に入った。彼は以前に昆布先生が仕事を手伝っていた漁師の繁蔵だった。先生が勤めたはじめての親方であり、昆布漁のイロハを教え込んだいわば恩師でもある。一去年、持病の腰痛が悪化してからは一線を退いていたが、いまでも朝晩欠かさずに砂浜を散歩する姿が見受けられた。
 昆布先生は渡りに船とばかり、さもさも繁蔵の家族の一員であるかのようなふりをしてロープをくぐると、人のいい老漁師の横の席に腰を下ろした。「助かりました!ありがとうございます」
「いや、困ってる様子だったんでな。どうだ、今年の昆布は?」日に焼けた顔に白い歯がちょっとジェームズ・ブラウン似だった。
「全然ダメですよ。どこもおんなじです。ところで、ずいぶんといい席に座ってるじゃありませんか」
「おう、実はこの映画の手伝いをすることになってな。なんていうんだ、技術顧問か?なんだかえらそうな肩書きだが、要は俳優さんが本物らしく見えるように昆布漁のやりかたを教えてくれっていうのさ。組合長直々に頭を下げられたから仕方なく引き受けたよ」
「いいなあ、映画の手伝いなんて面白そうじゃないですか。うらやましい」昆布先生は本心からそう言った。どうにかして撮影現場に入り込むのが、目下彼の最大の夢だった。
「この漁期にそんな仕事引き受ける奴はほかにいないだろうさ。それもこれも、あの町長が無理に映画のロケなんぞ引っ張ってくるからだ」
 繁蔵が顎で示すほうを見ると、舞台上には当の町長と漁協の組合長がもっともらしい顔をしつつ肩を並べて立っていた。禿頭にちょび髭、赤ら顔に狸のような太鼓腹と、昭和の終焉とともに絶滅したかに思われたような容貌をした町長はすでに2度目の任期も終盤に差し掛かっていたが、噂では来年春の町長選で3期目の当選を狙っており、今回のロケ隊誘致もそのための人気取りに違いないと町民のあいだでは囁かれていた。一方の組合長のほうは一見すると実直そうな人物に見えたが、こちらも裏に回ると単なる町長の腰巾着にすぎないともっぱらの評判だった。その他に町会議員だのなんだのと大層な面々が登壇を済ませたとき、保養所の正面玄関から、一団の男女が姿を現した。
 そのなかのたったひとりだけが、まるでなにかの視覚効果を施されているかのごとく、光り輝くオーラを全身にまとっているように昆布先生の目には映っていた。ついに長年待ち望んだ瞬間が来たのだ。自身のこの目で彼女の姿を見るときが。白いワンピースから伸びるしなやかな肢体、輝く長い黒髪、大理石の彫刻のようになめらかな肌、つぶらな瞳にふっくらとした唇。一見どこにでもいるような親しみやすさと、天上から舞い降りたような可憐さを兼ね備えた奇蹟の存在。彼女が万雷の拍手に迎えられて他のキャストやスタッフとともにステージに上がると、その信じがたい魅力に圧倒された観客の間からはどよめきが起こった。
 地元のコミュニティFM“ラジオこんぶ”の女性パーソナリティによる司会進行ではじまったイベントは、まず町長と組合長による無味乾燥な歓迎のあいさつと、いかにこの映画の撮影が町にとって重要な意味を持つかという政治的なアピールにはじまった。ついで、主要な出演者と監督より一言ずつ町民へあいさつをいただくということで、まず司会者が指名したのは当然のごとく主演女優からだった。請われるままにマイクの前へと一歩進み出ると、ちょっとはにかんだような笑顔を見せながら一礼し、18歳の少女はその第一声を青い空の下に響かせた。

「みなさん、こんにちは…このたび映画『昆布少女』で主演を務めさせていただくことになりました、秋帆です!」

(つづく)