天然コウビサセロー(1)

 あれから十数年が経ったいま、もうひとびとの口の端に上ることはなくなってしまったが、千葉島の歓楽街のひとつである馬頭銀座の入り口には、かつて毎日のようにひとりの少女が立っていたものだった。年のころは十四、五歳だったろうか、いつもお下げにした黒い髪に白いワンピース、そして肩からは小さなポシェットをかけて、朝から晩までアーケードのはしっこにひとりぽつねんと佇んでいた。彼女がそこに立つ目的と言えばただひとつ、馬頭銀座に出入りする男たちにかたっぱしから声をかけることだった。どんな相手にでも決まって一言だけ、「コウビサセロ」というのがその少女が唯一発する言葉であった。
 当時の馬頭銀座といえば、職にあぶれた労務者たちが昼間から密造酒で酔いどれたり、背中に色鮮やかな刺青を背負った暴力団の男たちが猫の額ほどの縄張りを巡って流血騒ぎを起こしたりと、堅気の人間は滅多に近づくことのない一種の無法地帯というべき場所だった。しかしどんなに荒くれた男や酔漢であっても、誰ひとりとして少女からの誘いに応じようする者はいなかった。なぜならば彼らはみな、「あの娘とセックスした者は死ぬ」という噂を固く信じていたからである。
 おそらくそれは、少女の可憐な容姿に嫉妬する夜の女たちが流した他愛のないデマだったのだろうが、まだ関東地獄地震の記憶が生々しい当時、一見すると恐れを知らぬ男たちの心の底にも死に対する深い恐怖と生への執着が根ざしていたことを考えれば、そんな迷信じみた言葉を信じてしまったのもわからなくはない。にもかかわらず彼女は雨の日も雪の日も同じ場所に立ち、誰かが目の前を通るたびに同じ言葉を機械のように繰り返していた。「コウビサセロ…コウビサセロ…コウビサセロ…」

 ある春の雨の日、そぼ濡れて立つ少女の前に、ひとりの少年が現れた。
 彼は最初のうち、馬頭銀座の入り口に面した場所に立つとうの昔にシャッターを降ろしたパチンコ店の建物の外壁をじっと見つめていたが、やがて少女の存在に気づくと、彼女の元へと歩み寄った。
「…コウビサセロ」少女がいつもの言葉を口にしても、少年は静かに彼女の顔を見つめるだけであったが、ふいに肩からかけた白い帆布のカバンから紙包みを取り出し、その中身をひとつ、少女の眼前に差し出した。
「芋、食べない?」
「…いらない」少女はかぶりを振った。それはこの場所ではじめて彼女が口にする「コウビサセロ」以外の言葉だった。
「おなか減ってないの?いいからお食べよ」そういうと少年は自分もひとつ、袋の中身を口にした。
「芋、嫌いなの…」少女はうつむいて頬を強張らせた。「…あの男を思い出すから」
 その表情を見た少年は紙袋をカバンにしまったが、少女の前から立ち去ろうとはしなかった。「きみの名前は?」
「…チロ」少女はかぼそい声で答えた。



 雨が上がり、地獄のような色の千葉島の空にも虹がかかるころ、少年はチロとふたりでアーケードの下に肩を並べ、近くの露店で買った落花生を食べていた。
「チロ、どうしてきみは体を売っているんだい?」少年は悪意のない口調で尋ねた。
「…お母さんが悪い男にだまされて、借金をつくったから…」チロは細い指先で落花生の殻を割りながら淡々と語った。「そのお金を返せないと、お母さんがいやらしいビデオに出なきゃいけなくなるの…」
「その借金って、いくらなの?」
「5000万…」チロが口にした金額は、少年の予想を大きく越えていた。
「…とてもそんなお金は作れないし、でもこのままじゃ…だから少しでもと思って…」そう言って少女は、手の中にたまった落花生の殻を路上にはらはらと降らせた。
 少年はそんなチロの横顔をじっと見つめていたが、思い切って切り出してみた。
「ぼくにはきみを買うことはできないけれど、そのかわりに、きみのその髪の毛を売ってくれないかい?」
「えっ?」
「ぼくはこれから絵を描くんだ…ほら、あの建物の壁に」そういって少年は、さっき眺めていたパチンコ店跡の風雨にさらされて灰色にくすんだ壁を示した。「この馬頭銀座のひとたちに頼まれてね、あの壁になにか馬の絵を描いて欲しいんだそうだよ」
 言われてみると少年の服やカバンには、あちこちに絵の具の染みがついていた。しかしチロにはまだ、絵を描くことと自分の髪の毛を買うことにどんな関連があるのかがわからなかった。少女の怪訝そうな顔を見て、少年は静かに笑った。「その絵を描く筆にね、きみの髪の毛を使いたいんだ」
「あたしの髪で?絵を描くの?」
「そうだよ。ぼくは大切な作品を描くときには、かならず女の子の髪を使うことにしているんだ。たぶん、醤油工場*1に売るよりはいくらか高く買えると思うな…」少年は服のポケットを探ると、ひとつかみの紙幣と小銭を差し出した。その金額は、チロが考えていたよりは多いものだった。「どうだろう?きっといい絵が描けると思うんだけど」
 チロはちょっと考えるふりをしたが、内心ではもう決心はついていた。「わかりました、あなたに売ります」彼女は受け取ったお金を急いでポシェットの中にしまった。
 すると少年は、今度はカバンの中から大ぶりのハサミを取り出した。その大きさは、一瞬だけチロを怯えさせた。
「だいじょうぶ…心配ないよ」少年はそっとチロの長いお下げの片方に手を伸ばし、ハサミの刃をあてがった。髪の毛が切り落とされるとき、チロは固く目を閉じたまま「あっ」とかすかに声を洩らした。しかし反対側のお下げが切られたときには、最初ほどの恐れはもうなくなっていた。
 少年は切り落とした2本の髪の束を白い紙に包み、大事そうにカバンへとしまい込んだ。
「ありがとう。たぶん、明日から作業できると思うんだ…それじゃ」そして少年は立ち去っていった。チロはその後ろ姿が見えなくなるまで、いつまでも見送っていた。

(つづく)