昆布は無慈悲な海の女王 〜5

 明け方、昆布先生は夢を見た。
 彼が砂浜を歩いていると遠くで呼ぶ声がする。見れば、波打ち際で秋帆が笑いながら手招きをしていた。しかし急いで駆け寄ってみるとそこには誰もおらず、ただ冷たい潮風が海の彼方から吹きつけているだけだった。
 と、いきなり足元を洗う波の中から何かが踝のあたりにからみつき、強い力で彼を海中へと引きずり込もうとした。見るとそれは、誰のものともつかない人間の手であった。
 昆布先生の体は引っ張られるまま、うつ伏せに浅瀬から深みの方向へと引き込まれていき、彼は必死にもがいて何か手がかりになるものを探したが、指先に触れるものは海水と柔らかい砂の感触のみであった。だがやがて、その手が何か固いものをつかんだ…ようやく水面に顔を上げてみると、それは海中に立ってこちらを見下ろしている秋帆の足首であった。昆布先生は必死に助けを求めようとしたが何故か声が出ない。秋帆はその姿をじっと観察していたが、やがて片足を上げると彼の頭をぐい、と踏みつけて水中へと押し込んだ。いまや昆布先生の顔はずぶずぶと砂の中へと没し、肺の中は空気が抜けてからっぽになろうとしている。遠ざかる意識の中で彼の耳に届いたのは、誰かが遠くで嘲笑っている声だった。どうやらそれは、秋帆の口から発せられているように思われた。
 いつしかその哄笑は、聴き慣れた携帯電話の着信音へと変わっていった。
 目を覚まして我に返った昆布先生は、布団の横の棚に置かれた目覚まし時計を見た。午前5時30分。まだ夏昆布漁が始まっていないのに、こんな時間に電話が来るのは珍しいことだ。
 枕元で鳴り響く携帯に手を伸ばそうとしたそのとき、昆布先生は自分が激しく勃起していることに気づいた。
 着信ボタンを押すと、親方の声が告げた。「おい、繁蔵さんが、行方不明だ」



 自転車を飛ばして東港の浜辺へと着いたのはそれから30分ほど後のことだった。昨日の晴れ渡った天候が嘘だったかのように乳白色の海霧があたりを深く覆う中、砂浜にたたずむ人々の影が灰色の幽霊のように浮かんでいる。海岸道路には数台のパトカーが止まっていた。浜辺の捜索は続いているのだろうが、この天候では成果は期待できないだろう。それに、船を出して海上を捜すこともできない。昆布先生は路肩に自転車を止めて防潮堤を乗り越えると、流木や干からびた海草が散らばる砂の上を歩き出した。霧の中から、打ち寄せる波の音だけが重く響いている。
 ようやく探し当てた親方は、他の漁師たちと同様に、ただ白いヴェールに隠された海の方向を悄然と眺めていた。
「なにがあったんです?」昆布先生が低い声で尋ねると、親方は「わからねえ」と唸るように答えた。「聞いた話だが、昨夜おそくに突然、『浜に行ってくる』と言って懐中電灯を持って出て行ったらしい…そのまま戻らなかったそうだ」
「なぜ浜に?…一体なにがあったんだろう」
「さあ…ゆうべは天気も悪くなかったし、べつに変わったことはなかったが…」
 そのままふたりは黙りこくった。昨日のイベントが終わったあと、秋帆の存在に心を奪われていた昆布先生は、繁蔵へのあいさつもそこそこに帰宅したのだった。あれが最後の別れになるとは思いたくなかった。
 ふと周囲を見ると、少し離れた場所に繁蔵の家族がいることに気がついた。老いた妻はやはり海の方向をじっと見つめており、息子夫婦がその肩を支えるように背後に立っていた。ひとり息子は漁の仕事を継がず町役場に勤めているため、繁蔵は引退した後、妻とふたりで静かに暮らしていた。漁師はみな危険を承知のうえで仕事に臨み、陸に残された家族もまたそのことはよく理解しているはずであった。だが、このような結末はとても予想していなかったであろう。昆布先生は、なにか家族に一言声をかけるべきだろうかと考えた。しかしどう切り出そうかと悩んでいるうちに、ひとりの警察官が霧の中から現れて彼らのもとに歩み寄った。その手には黒い円筒形の物体が入ったビニール袋が握られていた。ああ、あれはきっと、繁蔵さんの懐中電灯だな、と昆布先生は悟った。
 そのとき、彼は誰かの視線を感じて振りかえった。
 少し離れた防潮堤の上に、ひとりの少女が立っていた。緑色のパーカーにジーンズ。フードを被った下から長い黒髪が覗いている。と、不意に渦巻く霧が押し寄せて彼女の姿を包み隠したかと思うと、次の瞬間、そこにはもう誰もいなくなっていた。



 その日一日、昆布先生は小屋の中で黙々と選別の作業をこなしていた。親方夫婦も今日は押し黙ったままで手を動かしている。聞こえているのは、昆布の乾燥を防ぐために24時間回しっぱなしにしている除湿機の作動音だけであった。
 しかしそのあいだにも、昆布先生の脳裏には、繁蔵の記憶が次々と浮かんでは消えていた。仕事には厳しかったが普段は優しく、悪天候で翌日に出漁がなさそうな夜には自宅に招かれて酒を振舞われたものだった。しかしどんなに飲んでも酔うことのなかった繁蔵が、なぜあんな海岸で行方不明になったのか?波にさらわれたとはとても思えないが、それ以外の原因も考え付かない。そもそもなぜ彼は夜遅くに海岸へ行ったのだろう。その理由も謎のままだった。繁蔵の妻に聞けば何かわかるかもしれないが、いまはそんな状況ではなさそうだ。頭の中ではさまざまな疑問が渦巻いていたが、明確な答えはどこからも得られそうになかった。
 来客があったのは夕方の4時を回ったころだった。入り口の戸が開いて、東港の町会長兼、漁協の昆布部会長である縁川がしわくちゃの顔を覗かせた。「ちょっと、話があるんだけどな」と親方を呼び出し、小屋の外でしばらくの間何事か話していたかと思うと、今度は親方が昆布先生を呼んた。
 外へ出ると、そこで待っていたのは縁川ともうひとり、Tシャツにジーンズで小ざっぱりした印象の30がらみの男だった。このひとは地元のひとではないな、と昆布先生は思った。
 最初に口を開いたのは親方だった。「先生、悪いけどな、明日から繁蔵さんのかわりに、映画の撮影に参加してくれないか」

(つづく)