昆布は無慈悲な海の女王 〜2

「あの女優の名前はなんといったかな」
 伊藤雄之助似の親方が不意に顔を上げ、のんびりした口調でつぶやいた。
「え、なに?」応えたのは親方の妻のほうだった。昆布先生はその質問に聞こえないふりをしていたが、朝からしばらくは収まっていた胸の鼓動がふたたび高鳴り始めるのを感じた。
 いま昆布先生がいるのは、雇い主である漁師の親方の番屋だった。親方といっても実際に働いているのは本人とその妻と昆布先生の3人だけで、今日は全員で朝から番屋の床の上に座り込み、干して切断された長切昆布を出荷前に1級から4級までの等級に分けるべく、一本一本肉眼でチェックしているところだった。
「あの女優の名前はなんといったかな」親方はふたたび繰り返した。「そら、今日東京から来る女優の名前だよ。顔はテレビで見たことはあるんだが、どうも思い出せない。なにか季節の名がついていたような気がしたが」
「え、そうだったかしら」
「春…」親方がぼそりと言った。「いや、違うな…冬?」
「夏…じゃなかった?」親方夫人もはっきり思い出せないらしい。
「いやいやそれは違う。そんな名前の女優はおらん。そんな名前の女優はおらん」なぜか親方は二度繰り返して否定した。「やっぱり春じゃなかったかな」
 昆布先生は大声で正解を叫びたい衝動に駆られるのをぐっとこらえ、代わりに腕にはめたGショックの文字盤に目をやった。現在の時刻は10時46分。撮影隊の到着は午後3時の予定なので、あとわずか4時間14分後にまで迫っている。しかしいまの彼にとってはその時間が永劫にも等しい長さに思われた。
「でも、この忙しい時期に映画撮影だなんていい迷惑よねえ」正解の出ないまま、夫婦の会話は別の話題へと流れていった。「もうすぐ夏昆布漁もはじまるっていうのに、組合もなんで全面協力するなんて言っちゃったのよ」
「そりゃしょうがないよ、今回の撮影隊誘致は町長と組合長の肝いりだからな。東京の映画会社にもずいぶん熱心に働きかけたらしい。もし映画が当たれば、町の評判も上がるし観光客も増える。それに…」親方は壁際に積まれている干した昆布の束を示した。昨年は久々の大漁で天井にとどくほどの高さまで積みあがったが、今年は番屋の壁を半分ほど隠している程度に過ぎない。「どっちにしても棹前がこの有様じゃ夏昆布も期待できんし、今年はたいして忙しくもないだろうよ」
「今年はサンマもだめみたいだし、いったいどうなってるのかねえ。海の底に怪獣でもいて、昆布もサンマも全部食っちゃったのかしら」親方夫人は深く嘆息した。
「まあいいじゃないか。収穫が少なければ、それだけ値段も上がるというものだ。去年はずいぶん安値だったからな」
「それにしたって限度がありますよ」そこでふたりの会話は途切れ、また黙々と昆布をより分ける作業へと戻った。
 道東で行われる昆布漁は大きくふたつの時期に分けられる。まず6月に獲れるのがいわゆる棹前昆布で、これは成熟前の若い昆布のことを指し、出汁は取れないがとても柔らかく昆布巻などの煮物を作るのに適している。特にこの地方では北方領土貝殻島近海で漁を行うために、貝殻昆布とも呼ばれていた。もちろん北方領土海域は現在ロシアの実効支配下にあるので、現在は民間協定に基づき毎年漁業料をロシア側に支払ったうえで、6月中の2週間前後のみだけ漁を許されているのが実情だった。それから7月中旬に入ってはじまるのが通常の夏昆布漁で、こちらは8月いっぱいまで続く。昆布先生の仕事もそのあたりで終わるのが通例だった。
 昆布先生は実際に船に乗って採りに行くわけではなく、まず親方が朝の6時から9時〜10時(その日の朝に終漁時間が決められる)にかけて船で漁場まで行き、長い棹を使って長さ15m以上はある昆布を海底からたぐり上げる。船から上げられた昆布はトラックに載せて干場まで運ばれ、そこでははじめて先生の出番となる。地面に降ろされた昆布の束を両手いっぱいに掴み、干場の上を引っ張ってまっすぐに伸ばしてゆく。天気のいい日はどんどん昆布が乾いてゆくので時間との勝負となるため、量の多いときには昼食を後回しにして作業するのも珍しくはない。むろん人数か少なければとても追いつかないので、どこの家でもこの作業だけは他の家族や知人たちが手伝いにやってくる仕組みになっていた。干場に敷かれた昆布がある程度天日干しされると、今度は数本ずつ束ねてから2mくらいの木の棒に折りたたむようにして掛けてゆき、その棒を乾燥機小屋の天井に並べて昆布を吊り下げてから巨大な乾燥機を作動させ、残った水分を抜いてゆく。ここでだいだい昆布先生の一日の仕事は終了する。翌朝、船が戻ってくる前に小屋から乾いた昆布の束をロープで括ったものを軽トラックに載せて番屋まで運び、今度はひと束ごとにからまった昆布を丁寧に一本一本ほぐし、天気のいい日にもう一度天日干しにしてから(この過程を日入れという)規定の長さに切断する。あとはいま先生たちが行っている選別作業を経て、それぞれの等級ごとに梱包した上で組合の検査員が厳重な検査を行い、はじめて値段がつくのだ。一般的な漁業が魚を獲って市場へ運んで終わるのとは違い、出荷までの過程に大変な手間がかかるのが昆布漁の特徴とも言えた。
 昆布先生はもう何年もここで仕事をしているのでだいたいのことには慣れていたのだが、この選別作業だけはどうも好きになれなかった。床の上に座ってひたすら昆布に裂け目や変色がないか見つめ続けるのは大変に神経が擦り減る。特にいまは頭のなかをひとりの女性の顔がぐるぐると回り続け、彼は集中力を保つためにとてつもない努力を費やしていた。

「やっぱり、春だったような気がするなあ」親方がまたつぶやいた。
 昆布先生は床に思いっきり頭を打ちつけたい気分になった。残り時間、あと3時間53分。

(つづく)