昆布は無慈悲な海の女王 〜プロローグ

 北海道の道東地方から南東へ数百キロを隔てた太平洋の海底に、はるかカムチャツカ半島から千島列島に沿って北海道沿岸へと至る巨大な地球の裂け目がぽっかりと口を開けて横たわっている。千島海溝と呼ばれるその裂け目の最深部は深度9000メートル以上にも達し、そこには太陽の光がまったく届かない未知なる暗黒の世界が果てしなく広がる。しかしその永遠の暗闇の中でさえ生態系は存在し、生物たちは過酷な環境下で生き延びるために独自の進化を遂げていた。
 この大いなる深淵が創り出された原因は、地球の表面を覆う強固だが不安定な、プレートと呼ばれる地殻の層どうしが衝突したせいだった。北海道を載せている陸側プレートの下に太平洋プレートがもぐり込み、ふたつの巨大な岩盤が擦れ合う狭間で、長い年月をかけてゆっくりと海溝は深さを増していった。
 そしていまなお、これらのプレートは動き続けている。
 その年の春。陸地ではようやく雪が消えたころ、千島海溝の底では密着するふたつのプレートのあいだで蓄積された巨大なパワーのほんの一端が開放された。まるで積雪の重みで曲がった木の枝が雪を跳ね飛ばすように、膨大な量の海水を支える岩盤は震動し、海底面では汚泥が巻き上げられ、地滑りが起こって随所で地形を変化させた。
 ほぼ100年周期で発生する千島海溝の大規模な海底地震は、これまでに幾度となく隣接する北海道の地に被害を与えている。1843年(天保14年)の十勝沖地震、1894年(明治27年)の根室地震、1952年(昭和27年)の十勝沖地震や1973年(昭和48年)の根室地震がその例だ。しかし今回の地震はずっと小さい規模に終わったため、地上の人間は誰もそのことには気づかず、わずかに気象庁地震計が微弱な揺れを記録したに留まった。海溝の底もほどなく元の静寂を取り戻し、ふたたび暗黒の世界は沈黙を守り続けた。
 だが遥か上方の海面では、ほんの少しだけ変化が起こっていた。
 月のない夜にもかかわらず、暗い波間にぼうっと青い光が灯った。少しずつ光はその範囲を広げてゆき、最終的には直径100メートルほどの光の環が海面の下に浮かんだ。青い光は心臓の鼓動を思わせるリズムで明滅し、しばらくはその場にとどまっていたが、やがて自分の意思を持っているかのようにゆっくりと漂いはじめた。
 光る浮遊物の向かった方向、海を越えたそのはるか彼方には、北海道の街の灯があった。

(つづく)

 ※ 引き続き、第1話を公開しました。