グラン・トリノ


●平日の初回上映で見たのだけれど、平均年齢高めの客席には男性だけでなく女性の姿も目立ち、上映終了後には二人連れのご婦人が「やっぱり年をとってもステキよねー」と話し合う声が聞こえてきた。かつて「ダーティハリー2」の脚本を担当したジョン・ミリアスはDVDのコメンタリーで「当時、女性ファンからの手紙には“ハリー・キャラハンに誘惑されたい”じゃなくて“自分からハリーを誘惑してみたい”という内容が圧倒的だった。だから『ダーティハリー2』にはハリーが女たちから誘惑されるシーンが追加されたんだ」と語っているが、80歳近くになってもいまなお遠い異国の女たちを胸ときめかせ、同じくらい男たちに憧れの念を抱かせるクリント・イーストウッドの魅力は、この「グラン・トリノ」でも色あせることはない。以下、見ているあいだに思ったことを書き留めておく。
●短く刈り込まれた芝生の上に散乱する陶器人形の破片をカメラがまず捉え、上方へとパンすると、そこにはM1ガーランド・ライフルの狙いを定めるイーストウッドの眼光鋭い表情が映し出される。「俺の芝生から出て行ってもらおうか…」そして宣戦布告の合図のごとく鳴り響くスネアドラム。このヒロイックな高揚感をもたらすドラムの音は物語の要所要所で繰り返し聞こえる。それはイーストウッド扮する主人公のミスター・コワルスキーが銃を手にするときだ。そして観客が最後にこのリズムを耳にするとき、物語は意外な結末を迎える。
●ぼくは近年のイーストウッド映画では圧倒的に「ブラッド・ワーク」が好きというような人間なので、ひさびさに馴染み深い、悪党どもの前に立ち塞がる孤高のヒーローとしての彼が戻ってきてくれたことが素直にうれしかった。もちろんこの映画がそんなに単純明快な内容ではないことは知っていたがそれでも本当にうれしかった。はじめて「グラン・トリノ」の予告編を目にしたときも書いたけど、これほどまでに他人に暴力を行使したり銃口を向けて脅したりする姿が似合う役者はちょっといないと思う。
●一方で、この映画では主人公が暴力を用いた代償として招いた事態が生々しく描かれる。隣のモン族の家が銃撃を受けたあと、娘のスーが帰宅する場面のショッキングさは他に比類がない。ふだん映画の中でどんなに人体が破壊されたり婦女子が虐殺されようとも笑って見ている自分でも、あのシーンにははっきりと衝撃を受けた。イーストウッドの暗黒面が大爆発である。
●しかし、どんなに心に深い傷を負ってもミスター・コワルスキーは自分の行動の責任を他者に負わせたり言い訳をしたりしない。朝鮮戦争で少年兵を殺した体験について神父に問われた彼は言う。「本当に怖ろしいのは、あれが命令でなく自分の意思でやったということだ」と。このセリフには主人公のキャラクターが集約されているような気がした。終盤に向けてミスター・コワルスキーが立ち上がって決着をつけるだろうということに(観客だけでなく)登場人物も何の疑いを差し挟まず、誰も止められないと感じているあたりの描き方もちょっと凄い。
●もちろん他のイーストウッド作品同様に、この映画にはユーモアも欠かさずに盛り込まれている。隣家の家族との応酬を描く前半では客席からひっきりなしに笑い声が上がっていたし、“一人前のアメリカの男になるための会話講座”のくだりや、ジェラルディン・ヒューズが贈ろうとする電話機のギャグはいま思い出しても猛烈におかしい。
●「グラン・トリノ」に登場する役者は有名無名を問わずみんな味のある演技を見せるが、とりわけスー役のアーニー・ハーは素晴らしい。撮影当時はまだ16歳だったそうだが、なんというか、嫁にしたいと思う女優がまたひとり増えた気がする。