牛とバルコニーのはなし(1)

 こんな夢を見た。
 起伏の激しい海沿いの道路をどこまでも走ってゆくと、左手に目的地が見えてきた。
 舗装道路から外れ、45度近い急角度のトンネルを転げるようにして下った先の浜辺に、断崖の壁面にへばりつくようにして建てられた奇妙な形の建物があった。どう見ても農場のようには見えない。
 玄関の引き戸をがらがら開けると、中は新しいが質素な和風の木造建築で、なにか寺院のような雰囲気だった。呼びかけても返事がないので勝手に靴を脱いで上がりこむ。建物は横に長い造りになっており、周囲の様子を伺いながら赤いじゅうたんの敷かれた廊下を静かに歩くと、ひとつの部屋の古風なガラス戸越しに人影が見えた。
 思い切って中を覗くとそこは大きな台所で、洗い場の前でひとりの男がうがいをしていた。
 「あの…」背中に呼びかけてみる。振り向いた男は初老で、坊主頭に作務衣を着ており、酪農家というよりは僧侶のようないでたちだった。施設を見学したい旨を伝えると、愛想良く笑って快諾した。
 「いやあ風邪を引きましてね」と言いつつ、男は建物の二階にある大広間へと案内した。ここへは前にも訪れたことがあるはずなのに、彼はこちらのことを覚えていないようだ。
 大広間は崖の斜面を利用して造られた巨大な部屋で、天井の高さは通常の二階建て住宅がすっぽり入るほどだった。この場所もなんとなく寺の本堂のような宗教施設を思わせたが、決定的に違うのは、仏像や祭壇に替わって奥の壁の上方に幅の広いバルコニーがしつらえてあることで、そこがこの施設の目玉の場所だった。コンクリートの低い壁が手すり代わりになっているため、上階の様子は下からは伺えないようになっている。
 男とともに長靴に履き替え、広間の右側に設けられた、バルコニーへ行くための傾斜路を登る。階段ではなく、ごつごつした岩の断崖がそのままむき出しになっていた。
 岩壁を登り終えて上へ出てみると、幅4〜5メートルはあるスペースの壁側半分が通路になっていて、やはり赤いじゅうたんが敷かれている。張り出し側の部分はコンクリートがむきだしで、低い仕切り壁でいくつかのスペースに均等に区切られていた。
 「ここで牛を飼うのです」と僧形の男は自慢げに言った。
 おそらくそのスペースに一頭づつ家畜が入るのだろう。しかしそこに牛の姿はなかった。ただ空気の中に濃厚な獣の匂いだけが漂っている。
 「完全屋内での酪農業を成功させるのは大変な苦労でした…」話はまだ続いていたが、頭の中は失望感でいっぱいだった。スターダストプロモーションのホームページには、彼女がしばしばここへ来て、酪農体験に参加していると書いてあったからだ。いま自分が立っているこのバルコニーの上で、彼女が牛たちに餌を与えている写真も載っていた。
 だが、ここに牛はいない。そして彼女も。

(つづく)